労働と健康の近代と労働科学
大原美術館特別展「異文化は共鳴するのか?大原コレクションでひらく近代への扉」が開催されたのを機に大原ネットワークの各機関が集まり、近代における各専門分野での受容史を語るシンポジウムが9月4日倉敷で開催されました。「大原ネットワークで開く近代への扉」と題したこのシンポジウムにおいて労働科学研究所からは「労働と健康の近代と労働科学」について報告を行いました。本稿はその概要です。
(労働と健康の近代の幕開け)
明治維新によって政府の技術導入が始まり、鉱工業の息吹とともに生野鉱山、富岡製糸場に外国人産業医が導入されるところから近代における労働安全衛生の動きが始まります。行政としては大学で医学教育が始まり医務局が文部省に設置されます。やがて医務局は内務省に移管されます。そして内務省に衛生局が設置され、衛生学が導入されることになります。
明治の半ばから繊維産業が盛んになり、夜業が始まります。労働者の劣悪な生活・労働条件と健康障害が問題となり、工場の活動に規制が必要か否かという論争が起き、工場活動の現実についての調査が民間でも政府でも行われます。大論争の後、明治末年になってようやく工場法が公布、施行されます。
欧米では産業革命以降長い工業化の歴史があるわけですが、20世紀初頭に至って政府や大学において労働安全衛生の研究が始まっています。ドイツでは1913年にベルリン大学に労働生理学研究所が創設されます。イギリスでは1917年に政府内に産業疲労調査委員会が創設されます。アメリカでは1918年にハーバード大学に産業医学コースが創設され、以降各地の大学に続々と設置されます。
(倉敷労働科学研究所)
1920年の冬の深夜に大原孫三郎と暉峻義等が倉敷紡績の工場を電撃訪問し、働く少女たちの悲惨な姿を目の当たりにし、改善を誓い合ったことが労働科学の原点になります。1920年盛夏に女子寄宿舎の一棟に合宿し、工員と寝食を共にして深夜業の研究の予備調査を実施します。1921年7月に倉敷紡績万寿工場内に倉敷労働科学研究所が創設され、「現場起点、現場密着、現場解決」をモットーに労働科学研究がスタートします。欧米の安全衛生研究と比較しても遅くはありません。暉峻ら創設メンバーの4人の研究者は「医学と心理学を主軸とする労働と生活に関する生物学的研究」として労働科学を構想し、学際的研究を特徴としました。欧米の真似ではないユニークなアプローチです。
15年に及ぶ倉敷労働科学研究所の成果は、①婦人、子どもの深夜作業の調査、②工場内の温湿度調整、③適正検査法の開発、④集団給食・集団栄養の研究、⑤職業病の研究をあげることができます。研究対象は工場内にとどまらず、農民の生活と労働に関する大規模な研究、郵便物の区分作業の分析・改善、日本古来の婦人労働である海女の潜水の科学的研究にまで及びました。
この間大原孫三郎の命により、暉峻はドイツに2年間留学、他の3人の創設メンバーも在外研究の機会を与えられ、当時の最新の研究成果を持ち帰っています。1924年には学術誌である「労働科学研究」(今日の「労働科学」)が創刊され、1929年には安全衛生健康関連学会の嚆矢となる産業衛生協議会(今日の日本労働科学学会)が発足しています。
(労働と健康の現代史)
15年間の活動を経て倉敷労働科学研究所は解散し、東京に移って日本労働科学研究所となり、やがて大日本産業報国会に統合されますが、1945年の敗戦とともに大日本産業報国会は解散、労研も解散となります。そして労働科学研究所が再建され、労働と健康の現代史がスタートします。
倉敷労働科学研究所はその後100年を超える労働科学研究の礎を築いたことになります。
主管研究員の小木和孝と酒井一博の分析によって労働科学研究の100年を振り返ると、倉敷労働科学研究所から受け継がれた特徴として、①現場学際アプローチ、②労働の人間化サポート、③対策指向汎用ツールをあげることができます。
労働科学研究所が100年を越えて活動を続け、社会に必要とされてきた要因としては、まず大原孫三郎の創業の精神、すなわち科学的研究の成果によって労働と資本の一致点を発見し、これを経営面に具体化するという労働理想主義が受け継がれてきたことです。次に民間非営利という立ち位置をとり、財政的には厳しいものの政府とは一線を画し、自由な立場で自ら思うところをエビデンスに基づき主張してきたことです。また欧米先進国から学び、日本の現場で研究し、アジアの諸国に日本の経験を伝えているという国際性をあげることができます。(了)
(2024年10月 理事長 浜野潤)