公益財団法人 大原記念労働科学研究所
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大原記念労働科学研究所
The Ohara Memorial Institute for
Science of Labour

大原ネットワーク「大原總一郎日記研究会研究報告会」について

公益財団法人有隣会は、岡山県倉敷市、大原家代々の事業経営と社会貢献の志を現代に活かすことによって、産業、学術及び文化の振興・発展に寄与することを目的として活動しています。大原家に残る膨大な文書・資料等の整理や保管及び調査を行い、またこれら資料の公開を「語らい座 大原本邸」を舞台に行っています。

こうした有隣会の活動の一環として、「大原總一郎日記研究会」が、阿部武司大阪大学名誉教授を中心とする7名の研究者グループによって進められています。2023年11月25日には、語らい座 大原本邸 ブックカフェにおいて「大原總一郎日記研究会」の研究報告会が行われました。

大原總一郎(1909-1968)は、大原孫三郎の長男として生まれ、倉敷大原家八代目当主となります。旧制第六高等学校を経て1932年に東京帝国大学経済学部を卒業、同年11月に倉敷絹織に入社して2年間の欧州滞在後、父に代わって戦時期の倉絹および倉紡のトップに就任しました。戦後は、倉レの経営に専念しています。

研究報告会では、阿部武司教授が「物価庁次長時代前後における大原總一郎の社会思想」を、廣田誠大阪大学教授が「大原總一郎の旅についてー鉄道による移動を中心にー」、平野恭平甲南大学教授が「ビニロンをめぐる大原總一郎の内面への感情史的アプローチ」というテーマで発表を行いました。

阿部教授は、大原總一郎氏が物価庁次長(次官待遇)に就任した1947年~50年に、日本社会をいかに観察していたかという観点から、(1)總一郎の社会主義観、(2)分配問題の解決策、(3)總一郎の官僚観、について発表を行いました。

大原總一郎の社会主義観は、マルクス主義には批判的であり、漸進的な社会主義改革と社会主義の実現を目指したイギリスのフェビアン協会に近い立場にありました。こうした思想は、1924年創立の日本フェビアン協会とも深くかかわり、さらにそれを発展させたといえる日本フェビアン研究所の創設(1950年)と結びついています。また、日本経済を対象とし、そこから出発した経済学の完成がなければ、日本の経済学は海外からの借り物に終わり、現実の経済を説明し批判する指導力を持ちえない、という見通しを示しています。

分配問題の解決策については、社会的再配分が必要な者として、労働者、失業者、無能力者をあげ、労働者や失業者は労働組合や政府の失業対策、失業保険で救済されるが、それでは救えない無能力者に対しては、租税ではなく企業の利潤から財源を確保し救済することを提唱しました。文化国家であれば、生産拡大に向けられる利潤の一部を、独立能力のない人たちに向けるべきだという考えに基づくものです。国会が定めた一定規模・内容の営利法人を対象として、たとえば30%の利潤を救済目的に充てられるように、相当の株式所有権を社会事業財団等に移転させるといった具体的手段を示しています。

官僚観については、官僚を原則と方針のみを言う人たちとし、原則的には認めがたい例外の中に多くの真実が滅ぼされていく、と捉えています。役人の政治は、解剖学の実験をしない医者が、患者の内臓の治癒をするようなものであり、官僚たちが民間の企業人とは異質のプライドの強い世界に生きていることを皮肉交じりに記しています。
廣田教授は1948年~53年の大原總一郎の日記を素材として、鉄道旅行が企業家・経営者の活動に及ぼした影響について考察しています。總一郎の鉄道の旅は、大原家のみならず工場進出先の地域社会にも大きな影響を及ぼすものであり、事業活動と並行して、様々な文化活動が行われました。移動中の列車や訪問先では多くの有力者や著名人と交流し、知識人・教養人としての總一郎に大きな影響を与えました。その活動範囲は、倉敷近隣のみならず、東京、北陸、東北、四国、九州と広範囲にわたりました。当時は、現在よりも列車等による移動時間がはるかに長かったのですが、總一郎にとっては貴重な読書の時間でもあったようです。その一方で、短期間に繰り返されるこうした出張が、總一郎の健康を次第にむしばんでいった可能性があると、廣田教授は指摘しています。

平野恭平教授は、倉敷レイヨンが国産合成繊維であるビニロンの市場確立に取り組んだ時期の、大原總一郎の内面の動きを日記から読み取ろうとしています。総一郎は、国産合成繊維であるビニロンについて、戦時期・復興期に不足していた綿花や羊毛に代替する大衆の基礎的需要を満たす繊維、したがって低廉な価格が求められるエッセンシャル・ファイバーとしての役割を果たすことを目指しました。しかし、ビニロン部門の収益低迷が会社の財務内容を悪化させるという状況が続きました。総一郎の、ビニロンに対する強烈な理想主義的思いと、市場面・技術面における合理的な対応の必要性との間に生じる苦悩や迷い、エッセンシャル・ファイバー観を容易に改められなかった心の動きや複雑な感情が、日記から明らかにできるのではと、平野教授は指摘しています。こうした経営者としての悩みや迷いの中、倉敷レイヨンの技術者ばかりでなく販売部員の多大な情熱と努力によって、合成繊維の特徴に適した用途を見出し、高くても売れるという特徴を持つアディショナル・ファイバーとしてのビニロン需要の見通しに、好転が感じられるようになっていきます。

報告会における3人の先生方の発表は広範にわたり、また詳細な内容でした。以上はそのごく一部を、筆者が主観的に記載させていただいたものです。読解を進めている日記はまだまだ大量に残されており、今後の先生方のさらなる研究成果が大いに期待されるところです。

(2023年12月 常務理事 福島 章)