公益財団法人 大原記念労働科学研究所
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大原記念労働科学研究所
The Ohara Memorial Institute for
Science of Labour

労働科学の動き、原点に戻る(第2回)―大原孫三郎と清水安三との出会い―

 2023年7月1・2・3日、日本労働科学学会は、岡山県倉敷市で<第4回年次大会>を開催した(実行委員長 北島洋樹)。労働科学の原点に戻るということで、倉敷中央病院「古久賀ホール」および倉敷アイビースクエア別館「フローラルコート」をメイン会場にして、統一論題・自由論題・企業見学(株式会社、倉敷繊維加工株式会社)などが行われ、会員を中心に約80人の方が参加した。

 言うまでもなく大原記念労働科学研究所(元・倉敷労働科学研究所)は、大原孫三郎が1921(大正10)年倉敷に、労働環境改善の研究機関として設立したものだが、ここには倉敷紡績の実業家、また社会・文化事業にも取り組んだ社会事業家の生き方・考え方が色濃く体現されている。こうした大原孫三郎の活動は、それ自体で大きな成果を上げているが、その他にも様々な相乗効果をあげている。それが、大原孫三郎と清水安三との出会いであり、現在、われわれの活動拠点を置かしていただいている桜美林大学の存在である。

 清水安三は、1891年、現在の滋賀県高島市に、比較的裕福な家に次男として生まれた。長男の放蕩で実家が没落し、困窮した少年時代を過ごしたと言われる。現在の県立膳所高校に入学するも経済事情などで学業にも専念できなかったと言われるが、英語教師として赴任した宣教師ウィリアム・メルリ・ボォーリスの支援で、1908年学費を必要としない同志社大学神学部へ入学した。

 清水安三は、同志社大学時代に唐招提寺を訪れた際、開祖鑑真和尚の布教活動への熱意に打たれ、また義和団事件で殉教した米国人宣教師ホレス・ピトキンの逸話を聴き、中国へ渡る決意をしたと言われる。

 組合教会宣教師として派遣された清水安三は1917年中国奉天に着任したが、1919年秋に、中国北部一帯を大旱魃が襲った際、彼は日本から送られてきた義援金を華北部の農村に送り届け、飢えに苦しむ子供達99名を集め、北京の朝暘門外に建設した救済施設に保護した。

 朝暘門外一帯は、当時、貧困層が暮らす中国最大のスラム地域であったが、若い娘たちがわずかな金銭で身売りされる日常を目にした清水安三は、少女たちを救う道は教育以外にないと思い、識字教育を行い、同時に自立のための技芸を習得させる無償の学校である「崇貞(ツオンチェン)工読学校」を設立した。1921年のことであった。その後、工読学校は「崇貞学園」(現在の陳経綸中学)と名称を変え、徐々に教育施設を整備し、1945年の敗戦までひたすら教育活動を続けた。

 大原孫三郎は、1923(大正12)年、生涯一度の海外旅行を行うが、ここで案内役として、北京日本人教会の若い牧師・清水安三と出会う。大原孫三郎は、清水安三が北京城外で貧しい子供ための教室を開いていると聞き、強い関心を示したと言われる。そして、清水安三が米国オハイオ州オベリン大学へ2年間の留学を希望していることを知り、1924年から3年間の清水安三夫妻の米国滞在を支援したと言われる。

 現在、大原記念労働科学研究所の研究活動は千駄ヶ谷、大久保百人町の桜美林大学のキャンパスで行っているが、それは大原孫三郎と清水安三の1923年の出会いから始まったと言っても過言ではない。そして、この出会いは大原孫三郎の「社会から得た財はすべて社会に返す」という信念と清水安三の「学而人事(学ぶことは自分のためではなく隣人のためになすべきだ)」という考えの結合ということが言える。大原孫三郎の紡績工場の労働環境の改善と清水安三の北京での貧民子女の教育活動の両方を、労働科学研究の基礎において活動するべきだと考えている。

 大原記念労働科学研究所のスタッフは、2023年度前期においてビジネスマネジメント学群で「特別講義(企業活動と労働環境)」を、後期において大学院で「職業倫理研究」を講義している。また、春と秋には、全学生・全院生の希望者に対してインターンシップを実施している。大原孫三郎・清水安三両先生の働く人への暖かい思いと子供達・若者への慈しみという原点を、しっかりと念頭において、研究・教育指導に取り組みたいと思っている。

 

<参照文献>
三谷高康安(桜美林大学)「桜美林学園創立者 清水安三の生涯「夢を見よ」『教団新法』日本基督教団、4930・31号、2020年8月1日。
城山三郎『わしの眼は十年先が見える(大原孫三郎の生涯)』新潮文庫、19979年5月1日。
多部田俊輔「日本人が創設した名門校-中国北京市」(グローバルウオッチ)『日本経済新聞(夕刊)』2023年4月19日。

2023.8.3 所長 坂本恒夫