研究所創立から東京移転まで(1919(大正8)年~1936(昭和11)年)
1919(大正8)年 | 2月9日 倉敷紡績社長大原孫三郎により大原社会 問題研究所を創立(所長・高野岩三郎,森戸辰男,大内兵衛) 2月13日 大原救済事業研究所創立総会,暉峻義等この研究所の所員となる 7月4日 上記両研究所の合同を正式決定,大原社会問題研究所となる 暉峻義等は東京で『日本社会衛生年鑑』の編集,八王子の機業地における女子労働の調査を行う |
---|---|
1920(大正9)年 | 2月 暉峻義等,大原孫三郎社長と倉紡万寿工場を深夜訪問,工場内に研究所設立の提案を受ける 5月 暉峻義等「合理的労働の見地より観たるテーロイズムの批判」を『中央公論』第35巻第5号に発表 6月 『日本社会衛生年鑑』第1冊(大原社研) 7~8月 倉紡万寿工場の女子寄宿舎に暉峻義等,石川知福,桐原葆見の3名が合宿して昼夜二交替作業の実態について予備調査(この実験研究班を労働科学調査室と呼んだ) 12月 大原社研高野岩三郎所長は倉敷に行き,大原孫三郎と会い,社会衛生部門の関係者を倉紡工場内の研究部に移行させることを決定 ・F. S. リー原著,暉峻義等訳『生理学上よりみたる労働者問題』 |
1921(大正10)年 | 3月 研究所の建築に着手 7月1日 倉敷労働科学研究所創立(初代所長に暉峻義等) 日本労働学校開設(森戸辰男,暉峻義等ら参与) 7月 暉峻義等ドイツ留学に出発 ・暉峻義等『乳児死亡の社会的原因に関する考察』(大原社研) |
1922(大正11)年 | 倉敷労研が,倉敷小学校,商業学校,女学校生徒の心身機能検査,生体測定を行う |
1923(大正12)年 | 12月 暉峻義等ドイツ留学から帰る,各種実験機械,医学と自然科学に関する雑誌図書のほかゲッチンゲン医学史文庫,フェルポルン文庫など留学土産として到着した |
1924(大正13)年 | 6月 『労働科学研究』第1巻第1号創刊へ。暉峻義等が巻頭論文でテーラーの科学的管理法を批判 6月 研究室内に温湿度調節室を設け,暉峻義等,石川知福,八木高次,桐原葆見らの協同実験はじまる 倉敷労研が難波家の「温知堂文庫」を購入 |
1925(大正14)年 | 6月 「労働科学研究所年報」創刊 ・暉峻義等『産業疲労』(金原書店) |
1926(大正15)年 | 3月 逓信省,労研に郵便事務能率に関する研究委託 |
1926(昭和1)年 | 5月22日 摂政官(昭和天皇)労研訪問 9月 負荷歩行研究のための実験室完成 ・F. S. リー著,暉峻義等訳『産業能率の研究』改訳刊行 |
1927(昭和2)年 | 6~7月 暉峻義等ほか,三重県志摩で海女の労働調査(世界で最初の潜水の生理学的研究となる) ・暉峻義等『社会衛生学』(吐鳳堂) |
1929(昭和4)年 | 2月 暉峻義等らが産業衛生協議会(後に日本産業衛生協会,学会となる)創立 5月 「労研饅頭」出来,試食会を催す |
1930(昭和5)年 | 5月 職業婦人の妊娠出産調査を開始 6月 倉敷市帯江村で農業労働調査開始 6月 倉敷労研,大原孫三郎の個人経営に移る |
1932(昭和7)年 | 1月 倉敷労研図書館設立 奥山美佐雄,労研式ガス分析器発表 |
1933(昭和8)年 | 1月 有栖川宮記念厚生資金,「農家の主婦の労働」の研究に与えられる 6月 岡山県高月村に農業労働調査所設置 12月 岡山山陽新報社職工の鉛中毒調査 勝木新次・江田周三,労研生体寒暖計発表 石川知福,塵肺の研究をはじめる |
1934(昭和9)年 | 6月 高松宮,労研視察 |
1935(昭和10)年 | 4月 高月村農業労働調査所閉所 7月 農村更生展覧会 7月 国民栄養調査開始,全所員が関係する,1936年8月下旬までに現地調査は全部終了 石川知福・江田周三,労研式塵挨計発表 暉峻義等は人絹連合会に職業病予防について意見を具申 古沢一夫,日本産業衛生協会総会でエネルギー代謝率(RMR)を提唱 ・暉峻義等『社会衛生学』(岩波全書) |
1936(昭和11)年 | 7月 倉敷労研創立15周年記念 8月 倉敷絹織(現クラレ)で暉峻義等を中心として人絹工業職業病防止の研究はじまる 10月 第15回日本生理学会総会を労研で開く 11月 倉敷労研解散式,大原孫三郎若干の維持費をつけて日本学術振興会に寄託。東京へ移転 |