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流行語「安全・安心」を巡って ― 虫・鳥・労働科学の目

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福島第一原発事故を経験した日本社会では、以来「安全・安心」という言葉が社会的なキーワードとなった感がある。そこでこのキーワードの意味するところを考えてみたい。

多くの識者が指摘するところに拠れば、科学技術的な安全とは、いくらそれを追求したところで100%の安全はあり得ないと言う。確かに予期せぬ自然災害なども考慮に入れると(福島事故がその典型例)100%の安全は達成しがたい課題である事はうなずけよう。しかしながら、一部の技術者においては、過去に「絶対安全」が有り得るという神話めいた思考回路に陥り、それを社会に流布させた人々が存在したことも事実である。「安全・安心」というキーワードの始めに「安全」という語彙を置くという発想からは、どこかそうした考え方の残滓が残されているように感じるのは筆者だけであろうか。そのいわば「うしろめたさ」を補うものとして「安全」の次に「安心」という語彙が続けて登場するのでは、福島事故の教訓が十分に汲み取れていないとしなければならない。

ところで、社会的安全性の追求という枠組みの中で「安心」という言葉の意味するところは何であろうか。現代社会がその進展を図るために、科学技術に依拠していることは疑いもない事実である。しかし、それが100%の安全を保証するものでないとなると、我々が社会の進展を望む限りは、社会的合意事項として技術に伴う一定のリスクは受け入れざるを得ないものとなる。だが、人間は常に不安(安心の反対語)を抱えては生きて行けない(精神的な破綻を来す)生き物だというのも生物学的な事実である。ではこの受け入れざるを得ないリスクをどのようなオブラートに包んで我々は飲み込んでいるのであろうか。

おそらく、その答えは「安心」という人の感情の世界に由来する要因の働きを持ってしか補えないような気がする。だとすれば、そのような感情の拠って来たる所産を明らかにしなければ説明は難しい。心理学者の言葉を借りるまでもなく、感情とは人間的な関係枠の中から育まれて来る所産物である。だとすれば、例えば原子力プラントを例にとれば、それらの構築に従事している人々に一般人がどのような感情を抱くのかという事が「安心」の礎になるかと思える。

多分、安心感の前段階としては、それらに従事する人々に対して好感が持てるか否かであろう。では果たして、一般人は何が満たされれば人に好感を持つのであろうか。筆者は、紛れもなくここで言う一般人の一人である。そこで、以下、筆者の思うがままに、人の心に響く好感の要因を述べてみたい。

まず技術者には、何としても、時代の最先端をゆく知識・技術の確保を望みたい。たしかに、時代の進展につれて過去には分からなかった知見というものが現出する例もある。が、ともかくも技術者とは、その時代々での最先端の知見を追求する人々であって欲しいと願うのが第一である(尊敬の要因)。

二番目としては、技術者の人格的完成度の向上を望みたい。その中身とは、リスクに対して体を張る、結果的に起こった事柄に責任を取る、原因を誤魔化さない、無理な言い訳をしない等々である(信頼の要因)。そして、さらに、何でも話してくれる(情報開示)、何でも話せる(親近感)など、いわば、利己的な利害を超えて人間的な深みを陶冶する存在であって欲しいと願うものである。つまり、平たく表現すると「あの人がやっているのならば見守ろう」、「あの人が言っている事なら受け入れよう」、という好感情を獲得できる存在になって欲しいということである。

このように書くと、上述の事どもは、みんな業務遂行のための個人的資質の研鑽要求のように聞こえるかもしれない。しかしながら、筆者の思いは、これらは業務に付随した要求ではなく「一人間としての責務」として捉えて頂きたいという事である。つまり、これらの好感こそが安心感の礎になるものに他ならないと考えるものである。例えて言えば、中世社会のナイト(騎士)が、いざとなったら命を懸けてでも砦を守るという気概(Noblesse Oblige)を持っていたからこそ一般市民からの尊敬と信頼を勝ち得ていたという故事を引けば理解されるだろうか。「安全・安心」というキーワードの内の「安心」が意味するところとはそのようなものではないかと思う次第である。

(2018年4月 理事、研究主幹 井上枝一郎)