1918-19スペイン風邪の流行状況(労研図書館資料から)
新型インフルエンザ~過去の流行から学ぶ
スペイン風邪は1918年から1919年にかけ全世界で流行し、死者4000万人以上に及んだといわれています。労働科学研究所の図書館から当時の流行の状況を紐解いてみます。
- 労働科学研究所は1921年7月1日に設立されました。その前身は1919(大正8)年2月、大原孫三郎によって創立された大原社会問題研究所(大原社研)です。労働科学研究所の初代所長「暉峻義等(てるおかぎとう)」は、その一員として医学的労働研究部門を担当していました。
- スペイン風邪が世界で猖獗(しょうけつ)を極め、日本に上陸したまさにその年、暉峻義等は日本社会衛生年鑑(大正8年)を編纂しています。社会衛生年鑑の記録では、克明に日本におけるスペイン風邪の流行状況が記載されていて、流行がどの地域からどのように広がっていったか、各地域の死者数はどの程度に及んだかまとめられています。今から90年前の大正時代、当時の労研の正確な情報記録と情報発信に驚きます。
- 関連ウエブ:クラボウ大原孫三郎 今に伝える創業の心」労働科学研究所
マスクをかけねば命知らず!
当時の新聞でも世界的な新型インフルエンザの流行状況が連日紙面に掲載されています(下図右、大正7年(1918年)10月25日、讀賣新聞)。- 右の広告は当時(大正7年11月)の新聞に掲載されていた政府ポスターです。「恐るべし「ハヤリカゼ」のバイキン!」のタイトルと共に「マスクをかけねば命知らず!」と、マスク着用を励行しています。現代では「恐るべし豚インフルエンザのウイルス!」「マスク、手洗い、咳エチケットを!」という感じでしょうか。当時からこの流行性感冒(当時の新型インフルエンザ)の感染予防のための基本が国民に発信されていることは、当時からわが国の衛生水準が高かったことがよくわかります。
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1918-1919世界におけるスペイン風邪の流行と日本への上陸
- 大正7年3月にアメリカのデトロイト、サウスカロライナ州に端を発したインフルエンザは突然歴史の舞台にその姿を現し、猛威を振るい始めました。インフルエンザの第一波はそれらの地域からアメリカ各地へ広がりました。当時は第一次世界大戦が始まったころです。アメリカからヨーロッパ戦線へ送られる若い兵士によって大正7年4月頃、フランスのボルドー地方に持ち込まれ、その後、第一次世界大戦の戦線の拡大とともに、フランスからドイツへ、アルプスを越えてイタリアへ、さらにピレネー山脈を越えて、スペインへと広がりました。当時、中立を保っていたスペインは戦時の情報統制下になく、欧州での流行性感冒の情報はスペインから入ってくるようになり、いつしかこの新型インフルエンザは「スペイン風邪」と呼ばれるようになったようです。
- スペイン風邪流行の第二波は、大正7年6月ごろ、世界の三ヶ所の港(ブレスト(仏)、ボストン(米)、シエラレオネ(アフリカ))において同時感染爆発として再び猛威を振るい始めました。致死率は20%を超え、第一波とは比較にならないほどの強力な毒性を獲得していました。
- 大正7年晩夏あたりには日本に上陸し、猛威を振るうことになります。流行時には鉄道会社の社員の欠勤のため、輸送に不便をきたすような社会経済への大きな影響が発生しました(下図右、大正7年11月7日、東京日日)


世界の流行状況は「新型インフルエンザ」(山本太郎著、岩波書店、2006年p50-64)から引用しました(山本先生、ありがとうございます、吉川)。
日本社会衛生年鑑における記述と患者数、死者数
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暉峻義等が編纂し、大正9年に出版された本書には、当時流行したスペイン風邪の流行の状況が7頁にわたり記載されています。 - 本書には、大正7-8年の流行性感冒の感染者は2116万人(当時の人口の3分の1)、死者25万7000人と記載されています。
- 流行の特徴は「交通頻繁な都市に発し、後に放射的にその周囲村落を侵襲するを常とした」と詳細に述べられています。当時の鉄道事情を考えると、人の移動行動範囲にしたがって流行していていることを端的に示している明確な記述です。現在、流行してい豚インフルエンザ対策で、人と人の接触を避けるよう強調されていますが、その根拠の元がここにもみてとれます。
- 日本において大正7年秋から流行しはじめたスペイン風邪は、その後大正10年の春まで継続的に3回の流行を生じ、総計2380万人の患者と約38万8千余人の死者を出し、疫学上稀にみる惨状を呈することになります。大正11年には、「流行性感冒」(内務省衛生局編、倭文社、1922)が発行され、当時の流行状況の詳細がまとめられています。このデータは、現在の新型インフルエンザ対策専門家会議における、流行時の日本の患者数1700万人、死者17万~64万人の算出根拠の参照データとなっていると考えられます。
日本社会衛生年鑑における1918-1919年の スペイン風邪流行の記述
社会衛生年鑑には流行性感冒が流行が当時のわが国で展開していった様子が記述されています。「本邦における流行性感冒は年々多少の発生をみるが、今回の如き大流行を極めたことはない。大正7年3、4月の頃各地にて多少の流行をみたが、初夏の候に 本病の発生はやんだ、然るに9月中旬に至りて本病は爆発的に発生して、十月上旬その病勢はるかに熾烈となって藪旬を出ないで殆ど全国に蔓延した。その最も 猖獗を極めたのは11月で12月下旬にいたって病勢衰退したが、翌大正8年1月下旬から2月に至るまで酷寒の候にはさらに猛威を逞うして、(略)7月に 至って本病の流行はまったく終息をとげた。」(日本社会衛生年鑑(大正8年)、大原社会問題研究所、大正9年5月、労研図書館所蔵。自画像は労働科学研究所の所長室にある暉峻義等を描いた油絵)
当時の医学学術誌に報告されたスペイン風邪の発熱パターン
(佐藤勤也、世界感冒ノ臨床的観察.東京医事新説第2107号、大正8年1月20日号、労研図書館所蔵)
上図は当時の流行性感冒(スペイン風邪)の熱型です。左図は37歳男性で一峰性の発熱パターン、右図は二峰性のパターンです。当時はもちろん抗生物質はありません。フレミングがアオカビから抗生物質のもととなるペニシリンを発見したのは1929年(昭和4年)で、人への臨床応用が始まるのは、1939年のサルファ剤や1942年のペニシリン系抗生物質の開発まで約20年後のことです。右図の発熱パターンが二峰性の患者はインフルエンザに感染を生じたあと、いったん解熱傾向ですが、入院5日目に再び発熱し、二次性の細菌性肺炎を合併した可能性があります。現代では、二次性の細菌性肺炎については有効な抗生物質が利用できることから、当時ほどの死亡率は発生しないと予想されます。しかし、現段階では、今回新型インフルエンザと認定された豚インフルエンザの毒性の程度は不明で、今後さらに強毒化する可能性もあり、今後の分析が待たれます。
上記の情報は労働科学研究所産業安全保健エキスパートコース、第2回エキスパートの会(2008/10/28)、財団法人労働科学研究所セミナー(維持会向け、2009/1/20・27)で報告したものです。
文責 国際協力センター 吉川 徹(医師)














